日本蛋白質科学会からの提言

2010年8月26日

今後のタンパク質科学研究への国家的取り組みに関する日本蛋白質科学会からの提言

はじめに

現在、タンパク質研究はゲノム研究とともに科学立国の重要な柱として位置づけられ、先進各国ではさまざまな国家的取り組みが進められている。わが国でも、ターゲットタンパクプロジェクトの終了を控え、今後の方向が真剣に議論されるべき時期にきている。日本蛋白質科学会は「21世紀の生命科学の発展を担うタンパク質科学の推進を」という長期を展望した提言を2006年2月および2008年3月に出しているが、これを踏まえてこれからのタンパク質科学研究の行く末とそれに対する国家的取り組みのあり方に関する提言を行う。

1. タンパク質研究をめぐる最近の動き

ゲノムプロジェクトの終了により、ヒトが持つ全てのタンパク質のカタログが整備され、この豊かな情報の泉はいくつかの流れとなって勢いを増し始めた。大きな流れの一つは、あらゆるタンパク質の立体構造の決定を通して精緻な生命反応の仕組みを一つ一つ明らかにしようという構造生物学である。わが国における構造生物学研究はタンパク3000プロジェクトを契機に一気に加速された。タンパク3000以降も国民生活に直接関係のある重要なタンパク質に対象を絞ったターゲットタンパクプロジェクトへと引き継がれている。

米国においては構造ゲノムプロジェクト PSI-II が今年の6月で終了し、構造ゲノム研究は新しい段階を迎えようとしている。このプロジェクトを主導する NIH は昨年生物学者の参加を求めるプロジェクトを提案し、今年の7月から、構造生物学者と生物学者の共同による生物学的に意味のあるタンパク質の構造解析および、膜タンパク質に重点を置いた構造解析プロジェクトが始まる。ヨーロッパにおいても、同種の SPINE プロジェクトが終了し、新しい方向を模索している。平行して膜タンパク質、ウイルスタンパク質等、困難な対象に特化した構造プロテオミクスプロジェクトは既に数年前に複数スタートしている。アジアでは中国、韓国、シンガポール等で急速な追い上げを目指した取り組みが進んでいる。

文部科学省科学技術・学術審議会ライフサイエンス委員会は昨年(平成21年)12月7日に「新たなライフサイエンス研究の構築と展開」という中間とりまとめを発表し、「生命の包括的・統合的理解」を今後の学問的課題としてあげ、「長寿社会の実現」と「地球規模課題の解決」を社会貢献の課題としてあげている。総合科学技術会議も平成22年4月27日発表の来年度予算の基本方針において「グリーン・イノベーション」と「ライフ・イノベーション」を2大重点課題として提起した。

2. 生命科学・タンパク質科学を発展させるためにはどのような研究が必要か?

近年、生命科学は分子から細胞、細胞から個体へとより高次の生命現象を、遺伝子およびタンパク質ネットワークを基礎とした生命システム全体の働きとしてとらえる方向、言い換えれば「試験管から細胞、組織へ」に流れてきている。もともと個々の要素が全体として織りなす生命システムを統合的に理解しようという流れにはシステム生物学があった。これまでのところ遺伝子情報が中心で必ずしもその実体であるタンパク質を扱ってはいないが、最近タンパク質分子構造レベルにまで掘り下げた研究と組み合わせることの必要性が認識され始めている。一方、構造生物学の分野でも従来の枠を超えて生命システム全体を視野に入れたような研究が求められている。生命を森に例えれば、システム生物学はいわば森を外から情報のフローとして眺めるものである。一方、構造生物学は森の中から木を伐ってきて作業場に持ち込んで調べるものである。これからの生命科学、とりわけタンパク質科学は、森の中にあるままの木を周りの木々、環境との関連で細部に至るまで調べることにより、タンパク質ネットワークを物理および化学の原理の上に明らかにする研究に力を入れるべきである。

標準的な細菌細胞は総計25万のタンパク質分子を含んでおり(数千の異なる遺伝子産物の各々が様々な量で存在している)、個々のタンパク質は、その平均相互作用距離が水分子数個分と推定されるような、非常に狭い空間に封じ込められている。特に真核細胞では密に充填されていると考えられる。このような細胞の中でタンパク質どうしの局在、移動、相互作用、機能調節は時間的空間的に厳密にコントロールされ、緊密なネットワークを作り、機能の統合、生命機能の実現がなされている。したがって、生命の本質を完全に理解するためには、個々の生命機能ごとに役者であるタンパク質の時空間ネットワークを分子構造のレベルで解明する必要がある。このようなネットワークでもハブとなるタンパク質の構造と機能の解明は生命の統合的理解への重要なポイントである。さらに、このような研究を細胞内や生体内で行うか、in vivo 状態と直接結びつけていく必要がある。

このような研究はまだ萌芽期にあるが、細胞の中のタンパク質の構造と機能を調べる in-cell-NMR や、細胞や組織をそのままで分子分解能のイメージングを行うクライオ電子線トモグラフィーなど、すでに国内でも世界の最先端に位置する研究が始まっている。「森の中」そのものではなくとも、森の中に近い環境で木を見ることにもすでに注目が集まっている。すなわち膜タンパク質を膜に埋まった状態で解析する電子顕微鏡、固体 NMR 法や、X 線結晶構造解析法、生体内で相互作用する分子群を複合体のままで解析する超分子解析法、天然状態ではきちんと折れたたまった構造をとらなかったり、弱い相互作用しか見せないタンパク質の動的構造を捉える試み、などである。ここでは計算機科学を駆使したタンパク質ネットワークの構造ダイナミックスの研究も重要な役割を果たす。

これらは全て、タンパク質をその働いている姿のまま(Proteins in Action)で捉えようという欲求から生まれたものである。「試験管から細胞、組織へ」という研究の流れはこれまでもタンパク質科学者の多くが望むことであったが、これまでは技術的なハードルが高すぎて挑戦できなかった。しかし、最近の努力により可能性が開けつつある。

3. これらの研究を今後も発展させるためには国家的取り組みが必要である。

前項で述べた研究は生命科学の新しいフロンティアを切り開きうるものであり、医療・環境に大きな貢献が期待できるが、わが国の総力を結集した集中的な取り組みなしには成功しない。わが国にはこれらの研究を担う最新技術の開発に取り組んできた世界最先端の研究者がそれぞれの分野にいる。欧米も同じような方向への国家的研究投資を強めている中でわが国が競争に打ち勝っていくためには、今までの成果を基礎として、国家的な支援の下にこれらの研究者を効果的に組織してブレークスルーを作り出していく必要がある。 研究プロジェクトの具体的な方向性の例としては、細胞機能を1つ選んで、それに関わる因子群を系統的に取り上げ、系としての構造と働きを理解することなどが考えられる。例えば、(1)「神経細胞の信号受け渡し」として前シナプス、後シナプス膜を構成するタンパク質群、(2)「細胞分化における核構造変化」として、核マトリックスと染色体ポジショニングに関わる因子群、(3)「細胞の大きさ・形・動きの決定機構」として、細胞骨格とその制御因子群を in situin vitro でシミュレーションも駆使して網羅的に解析し、システムとしての記述を目指す、などをあげることができる。単純で分かりやすく、しかも生物学的・医学的に重要な機能をテーマとして、それを担う複雑系を、大きなチ-ムで集中的に取り組むことにより新しい研究領域が開かれ、タンパク質研究コミュニティ全体に波及効果がある。このような縦割りの研究とともに、個々の生命機能プロジェクトに共通したキーワードとして、タンパク質相互作用のハブとして機能する天然変性タンパク質の役割、超分子タンパク質複合体、細胞内タンパク質動態解析、タンパク質と協同してネットワークを形成する RNA、タンパク質複合体のダイナミクスなどの中から、重要で、プロジェクトを大きく推進する可能性のあるものを組み込むことも考えられる。このような研究を進めるためには生物学・医学研究者の積極的なプロジェクトへの参加と、X 線、NMR、電子顕微鏡、中性子、1分子解析、計算科学、物理計測、ケミカルバイオロジーなどの研究者との密接な共同研究が必要である。また、プロジェクトの効率的推進と研究成果を国内外に広く発信するためにはライフサイエンスにおける統合データベースを利活用するとともに、さまざまな分野に成果を発信する取り組みが重要である。

このようなプロジェクトを推進する鍵が開発途上の最先端技術にあることを考えれば、技術開発は「世界をリードするプロジェクト」成功の鍵となる。さらに、これらの技術の確立には大型投資を必要とする場合が多いので、先端技術開発はわが国の研究者全体、さらにわが国の科学技術全体にとってのインパクトも大きい。現在のターゲットタンパクプロジェクトでも先端的技術の推進を担うセクションが存在するが、必ずしも個々のプロジェクトとの連携が十分ではないので、新しいプロジェクトでは、X 線、NMR などの物理・化学的手法で必要なものに関して技術プラットフォームを形成して、技術開発と個々のプロジェクトへの応用を推進すべきであろう。たとえば、X 線の分野では SPring-8 で行われている XFEL 技術へのてこ入れと活用などが考えられる。また、次世代スパコンなどを用いたハイエンドなシミュレーション技術や統合データベースなどに基づくバイオインフォマティクスなどの計算科学との連携も期待される。これら先端技術は、将来的には広く利用される基盤的技術として成熟させていく必要が有ることは言うまでもない。

最後に、上記のような最先端技術を発展させていくためには、生化学、分光学、タンパク質工学、物理・化学などの分野を支えてリードしていく若手研究者の育成が必須である。これが担保されないと一部の研究者だけの特殊なサイエンスになり普遍性を獲得できない。

これらの研究は長期的展望と重層的組織、およびそれを支える財政的支援によって推進されなければならず、国家プロジェクトとしての位置づけが必須である。このような研究はわが国の生命科学・タンパク質科学の発展、ひいては国民の健康と生活の向上に役立つ重要な科学上の発見へとつながっていくであろう。

4. タンパク質研究に対する国家的取り組みはわが国、そして人類が直面するさまざまな課題に重要な貢献をする。

世界的にタンパク質研究が国家的な施策として重視されているのは国民の健康、地球環境対策、経済活動に与える影響が計り知れないからである。ゲノム科学で最先端を走った米国はバイオ医薬分野で優位に立ち、最先端医療に大きな影響力を行使している。その技術を使うために多額の特許料を支払わざるを得ないこともある。現在、国民の三大疾患と言われるがん、心疾患、脳血管疾患、さらに脳神経疾患に直接関わっているのはいずれもそれらの機能を担っているタンパク質群である。これらの疾患を克服するためにはそのメカニズムの解明を欠かすことができない。そこでのタンパク質ネットワークの構造と機能の解明はこれらの疾患克服の道を示すことになる。このような基礎研究と医学的あるいは薬学的応用的研究が協調的に進められることにより、画期的創薬や新しい治療法の開発へとつながる可能性がある。国はこの基礎研究を強力にバックアップしつつ、公的研究機関の基礎研究と企業の応用研究とが協力可能な環境作りに積極的な役割を果たすべきであり、そこでは本学会の構成員であるタンパク質科学研究者も全力をもって協力するであろう。本提言で提案した技術プラットフォームで開発された技術の提供も環境作りに役立つものと思われる。わが国は蛋白質研究では世界をリードしてきた。この流れを源泉として革新的なフロンティアを積極的に開拓することにより、国民の健康と安全、ひいては人類全体規模の課題解決に生かしていくことが国民の税金を有効に使う道であると考える。

提言検討委員会

委員名簿

  • 阿久津秀雄 大阪大学蛋白質研究所・検討委員会主査
  • 桑島邦博 自然科学研究機構・日本蛋白質科学会会長
  • 熊谷 泉 東北大学工学研究科・日本蛋白質科学会副会長
  • 山縣ゆり子 熊本大学生命科学研究部・日本蛋白質科学会副会長
  • 高木淳一 大阪大学蛋白質研究所・日本蛋白質科学会理事
  • 白川昌宏 京都大学工学研究科・日本蛋白質科学会前理事
  • 田口英樹 東京工業大学生命理工学研究科・日本蛋白質科学会理事
  • 濡木 理 東京大学理学系研究科
  • 杉田有治 理化学研究所