第8回日本蛋白質科学会(平成20年度)ワークショップのテーマ募集のお知らせ
追悼の辞:次田 皓博士
日本蛋白質科学会ニュースレター Vol. 7, No. 3 (207) 発行日 2007年10月15日
第8回日本蛋白質科学会(平成20年度)ワークショップのテーマ募集のお知らせ
第8回日本蛋白質科学会年会は2008年6月10日(火)〜12日(木)の日程で船堀タワーホール(東京都江戸川区)において開催されます。
事前参加・演題募集時期:2008年2月20日(水)〜3月18日(火)(予定)
これまで、年会実行委員会にてシンポジウムとワークショップについて検討を重ねてきており、その概要が以下のように決まってきております。
シンポジウム
- 蛋白質の輪廻転生 — セントラルドグマを超えて
- 構造生物学の展望
- 若手奨励賞 選考シンポジウム(予定)
注)来年度の年会では、これまでにない企画として優れた発表にポスター賞(学生対象)、若手奨励賞(ポスドク、助教クラスを対象)を授与することを予定しています。詳細は決まり次第速やかにニュースレターおよびホームページにて連絡いたします。
ワークショップ
- 天然変性蛋白質って何、何をしているの?
- 金属タンパク質の成熟化・機能化の分子機構
- ヒト・マウスのゲノムから蛋白質までをバイオインフォマティクスで徹底解析する
- 社会貢献を目指すタンパク工学
- プロテオミクスの新展開
- トランスポート ATPase の新展開 —構造、機能から応用まで—
公募
ワークショップ(2時間30分)については、既に6題のテーマが提案されておりますが、上記に加えて6題程度のテーマを募集いたします。ワークショップのテーマは、シンポジウムのテーマにはとらわれませんので会員の皆さまの積極的なご提案をお待ちしております。
希望する方は、ワークショップ名、概要(200字程度)、オーガナイザーの連絡先、予定演者(5〜6名)を11月30日(金)までに庶務幹事の田口英樹(東大・新領域 taguchi@k.u-tokyo.ac.jp)まで電子メールでお送りください。採否に関しては、実行委員会で決定し、後ほどお知らせいたします。
第8回日本蛋白質科学会年会
年会長 田中 啓二(東京都臨床医学総合研究所)
庶務幹事 田口 英樹(東大・新領域)
追悼の辞:次田 皓博士(1928–2007)
日本蛋白質科学会会員で、理科大学教授を退職後、プロテオミクス研究所所長・兼 NEC 基礎研究所プロテオミクス部門ディレクターとして活躍されていた次田皓博士が5月30日に78才で逝去された。長年に亘り肺気腫と喘息を患われ、入退院を繰り返されておられたとのことなので、肺機能の低下が死因と推測される。日本人研究者として次田博士ほど履歴の複雑な方は稀で、日本はもとより、米国、欧州各国で、蛋白質化学、分子生物学、蛋白質データベース、プロテオミクスなど広範囲の分野で大いに活躍し、500報に近い科学論文を発表された。将に波乱万丈の生涯であった。
私と次田博士とのおつき合いは1955年以来で最初から次田さんと呼んでいたので以下そのように呼ばせて頂くことにする。1955年当時彼は大阪大学理学部化学科の院生、私は東大理学部化学科の院生であったが、日本の蛋白質研究のパイオニアである赤堀四郎先生を共通の指導教官(阪大が本務、東大が兼務)に持ったことから親しくなった訳である。研究の場は異なったが兄弟弟子と言える。次田さんは発想の豊かな人で、当時阪大の赤堀研で蛋白質構造(当時は化学構造すなわちアミノ酸配列を指す)解析に関するニューズレターの類いのものを不定期に作製し同業者に配付していたが、その中心的役割を果たしていたのが次田さんであった。これはその後赤堀先生方の肝いりで、研究分野を広げ「蛋白質・核酸・酵素」として共立出版社から定期刊行されるようになった。
1960年に、赤堀先生(初代所長)のご努力で阪大に全国共同利用研究所としての蛋白質研究所が発足し、私はその化学構造部門の助手に採用して頂いたが、当時次田さんは同部門の初代教授成田耕造博士に続いてカリフォルニア大学バークレー分校・ウイルス研究所に留学中で、タバコモザイクウイルス(TMV)の RNA 成分を亜硝酸処理して塩基成分に変化を起こして増殖した人口変異体ではその蛋白質成分のアミノ酸配列が異なって来ると言う、いわゆる遺伝子コードに関する先駆的な成果を発表し、超一流の分子生物学者としての一歩を踏み出していた。この成果を始めとして、1963年の日本帰国迄に多数の関連論文を一流誌に発表し、その中には “遺伝情報の解読とその蛋白質合成における役割” でノーベル医学生理学賞を取得した M.W. Nirenberg 博士との共著論文もある。
帰国後は取りあえず私の在籍していた蛋白質研究所化学構造部門の助手に就任したが、翌年には阪大医学部分子遺伝学研究施設助教授、さらに教授に昇進された。帰国した1963年には米国での業績を基に日本生化学会奨励賞を取得している。しかし、その後1972年に学生運動に関連した問題で阪大教授を休職し、スイスバーゼル大(ビオツェントルム)微生物学・生化学講座客員教授として研究に従事された(阪大は1978年に退職)。1978年には当時ドイツのハイデルベルグに創設された欧州分子生物学研究所(EMBL)の教授主任研究員に就任され、主として蛋白質の化学構造解析技術の開発に従事された(1978–1985)。阪大勤務以来1985年迄に随時オレゴン大、ハーバード大、プリンストン大、モスクワ大、ナポリ大などの多数の客員教授も兼任されている。
私は1969年から米国ワシントン大学に在籍して日本を留守にしたので、この間の次田さんの活躍振りに関しては良く知らないが、バーゼル大、EMBL では優れた共同研究者に恵まれず、発表論文数から見ると、余り活躍されていなかったようである。また当時米国に伝わってくる次田さんの評判は余り芳しいものでは無く、彼の発表した数種の蛋白質のアミノ酸配列には大きな誤りがあるらしいとのことで、私に追試を依頼して来た X 線構造解析者があった。私の在米中次田さんにお会いしたのは、1980年代初頭ハイデルベルグで開催された蛋白質のアミノ酸配列解析法に関する国際会議(MPSA)の時であった。会議後に彼の単身アパートに泊めて頂き近郊を案内して頂いた。驚いたのは猛烈なヘビースモーカーに成っていたことで、アパートや車の灰皿はタバコの吸い殻で山のように成っていた。別の面で驚いたのは、彼はセミプロ並みの油絵の画家であったことである。休暇にはヨーロッパの各地に出かけて油絵を書いているとのことで、素晴らしい絵がアパート中に並べてあった。
次田さんは1985年に帰国されて理科大生命科学研教授(1985–2000)に、私も同年に帰国して藤田保健衛生大総合医科学研教授に就任してから、また親交が再開された。その一つが現在の日本蛋白質科学会の前身となった蛋白質懇話会(研究会)の発足で、これは次田さんの発案で、1987年頃本人に加えて当時大阪に設立された蛋白工学研究所の池原森男さん(所長)、三浦謹一郎さん、別府輝彦さん、私など(他にも数人居たが失念)が発起人となってスタートし、月に1回程度理科大に集まって話題提供者を中心に蛋白質関連の雑談に興ずると言う楽しい会であった。次田さんはこの種のこじんまりとした会が好きで、この会をもっと続けたい意向であったが、池原先生が1990年に日本で蛋白工学の国際会議を開催することを打診され、これを引き受けるためには主催団体が学会で無ければならないとのことで、急遽1988年には上記談話会を日本蛋白工学会に名称変更して学術会議に登録した。それがさらに発展的に解消して日本蛋白質科学会となって今日に至っている。この間次田さんの肺気腫は急速に進み、蛋白工学会の末期頃からは酸素ボンベ持参で参加されるようになった。
次田さんは元来技術、方法に多大の興味を持っていて、理科大教授時代の業績にも蛋白質の新しい解析技術に関するものが多い。加えて近年急速に発展したコンピューター技術を利用した国際協力による蛋白質情報データベースの作製にも多大の貢献をされた。それに関連した種々の国際組織(国際会議)の委員にも就任されている。また、学術誌の編集にも多大の興味を持ち、Protein Sequence & Data Analysis (1986–1994) や Res. Commun. Biochem. Cell & Mol. Biol. (1996–) の編集長もされていた。私も含めた普通の研究者が一般に嫌がるこの種の雑用に近い仕事もいろいろ引き受け、世界を駆け回っているのがお好きな活動的な人だった。理科大教授退職後もプロテオミクス研究所を創設し、肺気腫に苦しみながら酸素ボンベ持参で、逝去される迄所長として毎日活動されていたと伝え聞く。心よりご冥福を祈りたい。
千谷 晃一(藤田保健衛生大学 名誉教授)