追悼 〜稲垣冬彦先生〜
九州大学生体防御医学研究所・教授 神田大輔
稲垣冬彦先生が病気療養中のところ、2016年6月15日に永眠されました。ご自身の免疫細胞を使う療法を準備されていて、29日には治療が始まる矢先だったと伺いました。最期まで回復に向けて諦めていらっしゃらなかったことは、いつもまじめな稲垣先生らしさと感じます。享年69歳とまだまだ今後のご活躍が期待される年齢でのご逝去は、日本の構造生物学にとって計り知れない損失であり残念でなりません。日本蛋白質科学会にも大きな寄与をなされました。2001年の日本蛋白質科学会の創立から計6年にわたり理事を、法人化後には役員を2年の間お務めになりました。2003年には第3回日本蛋白質科学会年会を札幌コンベンションセンターにおいて年会長として開催されました。2016年から日本蛋白質科学会の名誉会員の制度が始まり、私が稲垣先生を推薦させていただきました。同年に、第16回日本蛋白質科学会年会を私が年会長として福岡国際会議場で開催したおりに、稲垣先生に名誉会員を贈ることができたことは、長年の先生のご恩に報いる最後の機会となりました。
稲垣冬彦先生は、東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻で理学博士を取得後、東京大学理学部生物化学科の助手(故宮澤辰雄教授研究室、その間にオックスフォード大学に Ramsay 奨学生として留学)を務められた後、東レリサーチセンター主任研究員、東京都臨床医学総合研究所生理活性物質研究部門の室長と部長、北海道大学大学院薬学研究院教授を歴任されました。2016年4月から微生物化学研究所の客員研究員として、新たな研究活動を始めたばかりでした。当初から一貫して核磁気共鳴(NMR)法を用いた蛋白質の構造と機能の研究にたくさんの優れた業績を残されました。北海道大学に移ってからはX線結晶解析法も取り入れました。最初の論文は1978年のウミヘビのエラブトキシンの CD および NMR 解析1) です。研究対象となった蛋白質の名前を挙げると稲垣先生の興味の広さがわかります。蛋白質性トキシン(Erabutoxin b を代表とするヘビ毒や貝毒)、蛋白質性の成長因子(EGF、TGF-α、Heregulin-α、IGF-II、IL-1β、Bombyxin、acidic FGF、Midkine)、細胞内シグナル伝達に関与するマルチドメイン蛋白質(Sos、Crk、Cbl、Bem1、p47phox、p40phox、FGFR)に含まれる蛋白質ドメイン(SH3、SH2、PB1、TIR、FYVE、FHA、TPR、チロシンキナーゼ)、Autophagy に関連する蛋白質群、脂質と相互作用するペプチド(melittin など)、その他(RNase T1、Cystatin、Ferredoxin、Cofilin/Destrin、IRF-3、ダニアレルゲン Der f 2、Calmodulin、MurD など)。たくさん列挙しましたが、漏れている蛋白質はもっとたくさんあるはずです。研究手法に関しても、界面活性剤ミセルやナノディスクの脂質相互作用蛋白質やペプチドへの適用、Sortase A が触媒するペプチドライゲーションの NMR への応用、ランタノイドイオンの PCS 効果を利用した蛋白質分子の大きな構造変化を解析する方法の開発、安定同位体フィルターなどの新しい NMR パルス系列の開発など、多岐にわたります。東京都臨床研時代には蛋白質研究に加えて、糖脂質(ガンクリオシドやグロボシド)の NMR 解析を積極的に進めました。それまでの糖鎖や糖脂質の NMR 解析は多数の似た化合物のスペクトルを経験的に比較するものでしたが、現在の蛋白質分子のシグナル帰属のように、COSY、TOCSY、NOESY 等を組み合わせて論理的に帰属する方法を開発しました。
私は宮澤研究室の学生としては稲垣先生との接点はほとんどありませんでしたが、東京都臨床医学総合研究所の研究員として10年間、実に愉しく過ごさせていただきました。その後、私は大阪の生物分子工学研究所を経て九州大学に、稲垣先生は北海道大学に赴任され、日本列島の北と南に分かれることになりましたが、タンパク3000プロジェクト、ターゲットタンパク研究プログラム、新学術領域研究等を通じて密接な関係を継続させていただきました。数ヶ月に一度は稲垣先生からお電話をいただき、ゴシップを含めていろいろな話をさせていただきました。「もしもし、コウダくん?(少し間を置いて、ゆっくりと少し恥ずかしそうに)イナガキです」のフレーズが今でも耳に残っています。
北海道大学を退任された後、しばらくは北海道大学特任教授として研究を継続されていました。驚くことは、質の高い論文発表が退任後も変わらず多数あったことです。最後の論文は2016年のオートファジー関連の結晶解析の論文2) となりました。日本蛋白質科学会、NMR 討論会、日本生化学会、日本分子生物学会などで、稲垣先生が要旨集に色とりどりの付箋を貼って、ポスター会場を熱心に廻られていたお姿を見かけた方は多かったと思います。稲垣先生は自身の研究ばかりでなく、審査員などの仕事も多数されていました。「忙しくていやになっちゃうよ」と言いながら、サイトビジットなどに行った話をしていただきました。豊富な知識とともに公平無私な人柄だからこそ、多くの委員や審査員を委嘱されたのだと思います。
こうしてふり返ってみますと、稲垣先生の日本の構造生物学分野における貢献は大変大きく、早すぎるご逝去はまことに残念です。ここに謹んで哀悼の意を表します。
1) Conformation of erabutoxins a and b in aqueous solution as studied by nuclear magnetic resonance and circular dichroism. (1978) Inagaki F, Miyazawa T, Hori H, Tamiya N. Eur J Biochem 89:433-442.
2) Structural basis for receptor-mediated selective autophagy of aminopeptidase I aggregates. (2016) Yamasaki A, Watanabe Y, Adachi W, Suzuki K, Matoba K, Kirisako H, Kumeta H, Nakatogawa H, Ohsumi Y, Inagaki F, Noda NN. Cell Rep 16:19-27.
稲垣先冬彦生への追悼文
奈良先端科学技術大学院大学・教授 箱嶋敏雄
稲垣冬彦先生の追悼文をこんなにも早く書くことになるとは思いもよりませんでした。2010年の北大定年退官の記念誌に一文を書いたのが昨日のことのようです。RNase T1 の構造や物性を議論して以来、30年以上の親交がありました。この急逝を受け止めて、私なりに色々な思いを整理するのには少し時間が必要です。ここでは個人的なエピソードを書いてみたいと思います。
出会は研究者になりたての若い頃で、会ってすぐに分子モデルを見ながらの真剣勝負の鋭い議論をしました。それで、出会えば、何かと話すようになり、特に用事がない時も色々な話し、電話でも世間話をするようになりました。専門とする手法も X 線と NMR で違うし、年齢も一回り近く離れており、生まれも育ちも、受けた教育も余り接点がないので、周囲から「どうしてそんなに仲がいいのか」とよく訝しがられました。互いのサイエンスの率直な批判者であり、理解者であったと思いますが、話題の研究論文や新手法、あるいは新事業に対する意見が妙に一致していました。私は元々数理系人間で将来はエレクトロニクスか機械工学あるいは建築でもやろうかと思っていたのがこの分野の迷い込んだのですが、稲垣先生も元々は物理化学だったので、現象のとらえ方の波長が合ったのかも知れないです。もしかして、温厚で育ちのいい稲垣先生にないものが私にあり、それに多少の憧憬を感じられていたのかも知れないと今では思います。2人で話している時には、普段よりも率直であり、「俺」・「お前」となることもあり、普段の稲垣先生しか知らない人たちには想像がつかないでしょう。そう言えば、常に極めて上品であった京極好正先生(当時阪大蛋白研教授)も、極々親しい仲間内では、何か叱責する文脈でもないのに、いつもの「xx 君」、「xx さん」あるいは「xx 氏」が、「xx」と呼び捨てになることがありました。このような「粗野」な言葉遣いは、思わず油断して発せられたものであり、(身内であるという)親愛の情の発露でもあったと理解しています。
稲垣先生とは、幾つかの研究プロジェクト事業を一緒に立ち上げたりしました。日本の構造生物学のグループグラントの一つの潮流は、京極先生の重点領域研究(1989~1990年)に始まります。その流れを受け継いだ特定領域研究「多次元情報伝達」(1996~1999年)を稲垣先生が立ち上げられました。文科省でのヒヤリングには、稲垣先生と私と白川昌宏先生(当時奈良先端大助教授)の3人で行きました。早朝、新橋駅周辺あるいは文科省前で待ち合わせました。稲垣先生は来るなり、「チョットやってみるか」と、早々に予行演習を始められました。当時はスライドではなく、OHP でした。前日に研究室(当時臨床研)で練習されたらしく、研究室の畠中秀樹さん(現 NBDC)に幾つかの図や説明が「わかりづらい」と言われたことを妙に気にされていました。「そうでもないんじゃないか」とか適当なことを言って、大丈夫ということにしたら、落ち着かれたようでした。そもそも、その段階で OHP を作り直すことはできないし、この期に及んで変更を加えて、せっかくの稲垣先生らしい「話の機微」というか、「勢い」が失われては元も子もありません。稲垣先生は自分に100%の自信がない時には人の意見をよく聞かれましたが、ほとんど自分で決めていても、同意を期待する、意見を尋ねることを時々されました。おそらく決意表明の稲垣流の作法であったと推察します。
本番では、3人で登壇して、稲垣先生の両隣に私と白川氏が座ったと思います。始まってすぐに、稲垣先生の声は明らかに上擦いており、緊張しているなあと心配になってきました。しかも OHP シートが光源の熱で端が湾曲してしまい、映写された像には焦点が甘くなっている部分ができてきました。稲垣先生はこれに気づきません。私は、段々はらはらしてきて、稲垣先生にそのことを小声で伝えようかと思って顔を見たら、紅潮して視線は宙に浮いているように見えました。話の興が乗ってきて無我夢中なのです。それで、私は何も言わずに手をのばして OHP シートの端を必死で押さえました。反射する光が眩しくて熱かったです。審査員席には、中央に委員長の志村令郎先生(当時、京大理教授)が、その両隣にはいつものように髙久史麿先生(東大医教授)と谷口維紹先生(東大医教授)、また、高井義美先生(神戸大医教授)もおられたと記憶しています。これら審査委員からの意見は概ね好意的で、いつも率直な意見を述べられる谷口先生からも、また、情報伝達ということで分野の近い高井先生からも厳しいコメントはなかったと記憶しています。稲垣先生は、丁寧な受け答えをされるのですが、やや「まどろっこしい」ところもあって、単刀直入な答えで口を挟みたい衝動に駆られたが、私はグッと堪えました。後半は予算の話も出てきて、ヒヤリング終了時には、これは採択されるなと密かに思いました。それから文科省を出て、「まあ、良かったのではないか」程度の話をして、稲垣先生とは、次の所用があるとかということで、早めに別れたと記憶しています。白川氏とは、近くのカフェで一息ついて、ヒヤリングの率直な印象や緊張ぎみだった稲垣先生のこと等を吐露し合いましたが、審査委員のコメント等からすると、上々の首尾ではないかということで一致しました。その読み通り、すぐに特定領域研究が始まりました。この特定領域研究は、日本の構造生物学が「構造分子生物学」から「構造細胞生物学」へと広がる契機となったことがその歴史的意義の一つであると思っています。そこで多くの若手研究者が育ち、私等も奈良で新しい研究室を立ち上げた頃で、経済的に大いに助かったし、同時に、奈良での研究成果の「the first bunch」が論文として出た頃でもあり、「稲垣特定」を支えられたと思います。その後、タンパク3000等のプロジェクトも稲垣先生と一緒でした。
日本の構造生物学のグループグラントのもう一つの潮流は、坂部知平先生(高エネ研)の重点領域研究(1993~1997年)に始まったもので、最近の月原冨武先生(2004~2009年)の特定領域研究の後、私が新学術領域研究(2010~2014年)を主宰しました。稲垣先生には、NMR 担当の重鎮の一人として協力してもらいましたが、例によって、研究課題は慎重に選ばれており、上質な論文を書いて頂きました。2013年に信州辺りでの班会議の帰りに、稲垣先生は近くの遺跡を見聞して帰ると言い出して、途中で別れたことがあります。これまで、稲垣先生の趣味に関しては余り注意を払ったことがなかったし、定年退官されてからも、5年間は特任教授として研究に勤しんでおられると理解していたので少し意外に感じました。研究に関しては、雑用や教育から概ね解放されて、本当にやりたい課題も盛り込んで展開されていて、「現役」時代よりもかえって生き生きしているように傍からは見えました。「paramagnetic NMR」の研究を再開されたのも、思わず頷いてしまいました。最先端の題材と手法が稲垣先生の研究の信条であり、先へ先へと分け入って行かれましたが、そのためにも、学会や新着論文等の情報収集で労を惜しまれることはありませんでした。これは遺伝なのかと思ってしまいました。
稲垣先生の「the best of my work」はどれだろうと考えると、憂鬱な気分から一時解放されます。稲垣先生は自慢されることは滅多にありませんでしたが、幾つかの論文は、控えめではあるが嬉しそうに話されました。それで、「いいねえ、こんな論文を書ける研究者がいったい何人いるのかねえ?」と持ち上げると、満面の笑みを浮かべて、例の優しい目になるのです。決してはしゃがないのが、かえって面白かった。研究者としての終盤を迎えて、稲垣先生がどのような身の振り方をされるのかをつぶさに見て、今後の参考にしようと思っていたのに、それはもう叶いません。研究者として、大学人として、アカデミア族として一人黄昏ていくのは寂しいです。
稲垣氏からの電話は、「ああ、ハコシマ君、イナガキです。」から始まって、大抵30分から1時間以上の長電話となりました。隣の部屋にいる秘書は呆れ果てていましたが、きっと、稲垣さんの秘書も呆れていたに違いない。長電話の度に、「また稲垣先生でしょう」と電話の相手を秘書は言い当てました。私にとっては、稲垣先生は若干愚痴っぽいところがあったと思います。日本あるいは世界の構造生物学とその将来について、北大や東大や日本の大学について、revise に一年近くかかった PNAS への論文発表の顛末について、あるいは子供についての話をしました。早世した私の妻に代わって2人の子供を男手一つで育てた私を、「ハコシマは偉い、俺にはできない」と妙に褒めてくれたのが懐かしいです。一方、研究の道を歩む御子息御令嬢のことをうれしそうに話されました。御両者にとっては極めて贅沢な家庭教師であったに違いない。そこでは、父親としての眼差しとともに、一方で、老練な一研究者としての透徹した視線と辛口の評価があり、稲垣先生はその相反する複雑な感情を楽しまれているようでした。羨ましいなあと思いました。それで、4年前の私の早婚の長女の結婚式で、私と長女が腕を組んで満面の笑みで厳かにロードを歩く写真を年賀状にして送って、「いい写真だろう」と見せびらかしたら、「うん、これはイイ」とチョットしんみりさせてしまいました。そんなことをするんじゃなかった。
周到な実験と抑制の効いた主張が印象的な論文と、私の研究生活の大半での折々の思い出を残して、稲垣先生は逝ってしまった。
30年余りの親交があったことは幸運でした。
稲垣冬彦先生追悼
微生物化学研究所・主席研究員 野田展生
稲垣冬彦先生が2016年6月15日に逝去されました。その前日である14日に稲垣先生から電話があり、お話したばかりでしたので、ただただ驚くとともにとても信じられませんでした。
私と稲垣先生との出会いは、私が博士課程に進学したころ、当時東京都臨床研におられた先生のところに実験助手のアルバイトをさせていただいた時でした。当時の私は今思うと相当研究に行き詰っていた状況で、華々しい成果を挙げておられた稲垣研究室に憧れたのがアルバイトの動機だったのかなと思われます。半年程度の短い期間でしたが、そのご縁で博士修了後、北大に移っておられた稲垣先生にお声をかけていただき、ポスドクとして正式に稲垣研究室の一員となりました。当初数年のつもりがあれよあれよという間に10年間も居させていただき、その間様々なことを学ばせていただきましたが、特に重要な点は「生物学的センス」を学ばせていただいたことです。当時の構造生物学屋の多くは蛋白質の構造決定がメインの興味であり、「生物学」というよりはせいぜい「酵素学」が興味の対象で、私ももれなくその一員でした。一方の稲垣先生は、言わずと知れた NMR の大家でありましたが、NMR への強い(強すぎる)愛だけでなく、それと同じ位、生命現象の解明にも強い思いをお持ちであり、その目的のためには手法にはこだわらない、真の意味での構造生物学者でした。X 線結晶解析が専門の私が雇っていただけたのも、稲垣先生のそういうスタンスによるところが大きかったと思われます。北大での稲垣研は NMR の方法論開発と生命現象の解明という両輪で動いていましたが、後者のテーマは多岐に渡っていました。中でも好中球活性酸素発生系、自然免疫、そしてオートファジーの3つのテーマについては、個々のタンパク質の構造研究ではなく、多数のタンパク質が協調して1つの生命現象を実現する過程を構造生物学的に解明しようという壮大なものでした。稲垣先生は良く「システムとしての構造生物学」という言葉を使われていましたが、現在流行のシステム生物学の構造生物学版を、20年前(あるいはもっと以前)から目指されていたということになります。しかしながら、個々のタンパク質レベルの構造解析でも厳しい国際競争がある中、システムとしての構造生物学は生易しいものではなく、稲垣先生が思い描いていたところまで研究が展開できたかというと、道半ばというのが正直なところかと思います。しかしながら、私が関わらせていただきましたオートファジーに関して言いますと、世界を完全にリードして「システム構造生物学」の基盤を創ることができたと言っていいと思います。ようやく完成した基盤を活用して、これから数多くの面白いことを解明していこうという矢先での旅立ちとなったことは、先生ご自身が一番心残りかと思いますが、そのご遺志をついでシステム構造生物学の達成を目指し進めていきたいと考えています。
稲垣先生の研究者としての偉大さは皆さん良くご存じかと思いますので、先生の人柄についてもここで少し触れさせていただきます。稲垣先生は、誰とでも分け隔てなく話をしてくださる、とても距離感の近い、若手に身近な先生でありました。出張で先生とご一緒させていただく機会は多かったですが、移動中は飛行機、電車問わず必ず席は隣で、研究の話はもちろんのこと趣味のことや噂話まで、いろんなお話を聞かせていただきましたし、学会などではまだ面識の浅い若手研究者にもとてもフレンドリーに話しかれられ、「近すぎるのでは」と思うほどグイグイ肩を寄せながらお話する姿をいつものように拝見しておりました(歩きながら会話をしていると、斜めに進んでしまうほどです)。留学中の愛弟子とは頻繁にスカイプでテレビ電話をされていたとも聞いています。またとても気配りされる先生で、「野田君には小さな子供がたくさんいるから」と北海道の取れたての野菜を東京に移った私にわざわざ送ってくださるなど、公私に渡って大変お世話になりました。
私が北大から現在の職場である微生物化学研究所に異動してからも、共同研究を続けさせていただいており、研究真っ只中でのお別れとなってしまいました。今年3月に特任教授の定年ということで北大の研究室を閉められたのですが、稲垣先生は病気療養中ということもあり、北大にあった先生の PC を私の研究室で預かっておりました。病気の治療が一段落したところで、研究再開のために PC が必要とのことで、先生のご自宅宛に郵送したのですが、それが無事に届いたというお礼の電話をわざわざかけてくださったのが、冒頭で述べた14日のことでした。今思うと、お体が相当辛い中での電話だっただろうと察せられ、どんな状況下でも周りの人に気を使われる先生のお人柄を良く表している出来事だと身に染みて感じております。また先生は病気療養中にも関わらず部下全員の進路の世話をして、研究も主要なものはすべて論文にまとめられた直後での旅立ちとなりましたが、先生の責任感の強さおよび研究への情熱を良く表していると思います。あまりにも早すぎるお別れとなりましたが、稲垣先生の研究への情熱は、多くの若手研究者達に引き継がれていくと確信しています。ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。