千谷晃一先生 追悼
去る平成24年12月16日に、藤田保健衛生大学名誉教授の千谷晃一先生がご逝去されました。千谷先生は、本学会の前身である蛋白工学会の会長を2期務められた他、本学会の創設時にも多大のご尽力をいただきました。千谷先生のご逝去にあたり、八木達彦先生、大島泰郎先生、高橋健治先生、林宣宏先生から寄せられた追悼文を配信すると共に、改めて哀悼の意を表します。
日本蛋白質科学会会長
中村 春木(大阪大学・蛋白質研究所)
千谷晃一さんを偲んで
八木 達彦(静岡大学名誉教授)
千谷さんと最後に会ったのは名古屋ガーデンパレスで2011年3月28日に開催された《千谷先生を囲む会》だからほんの2年前である。そのとき千谷さんは《送別会として開催するという話だったが、このまま分かれて会えなくなる訳でもないから囲む会に名称変更してもらった》とか、《北海道は遠いといっても飛行機に乗ればすぐ出てこれるし、暑い本州で頭まで熱気にやられてぼけるより北海道の涼しい気候で頭脳明晰に暮らした方がよっぽど知的に健康だ》とか、お得意の千谷節で会場を沸かせていたことを思い出す。単に口先だけで元気ぶるのではなく、その年の日本生化学会機関誌《生化学、vol. 83、2011》7月号、巻頭のアトモスフィアには《老人パワーの活用》と題して、現行の講座制・定年制にからむ天下り問題(官僚ではなく研究職教授の話)、科研費審査員の選考法の問題点など日本の科学社会に残る問題点を指摘し、意欲的で実行可能な改革案を提案しておられた。このアトモスフィアでの提言は、ぜひ皆さんも読んでおくことをお薦めする。千谷さんが学問の健全な発展を願っての、今となっては遺言である。
千谷君に初めて会ったのは、東大教養学部から理学部化学科に進学した1953年4月である。24人クラスの中で体つきは小さいが口が悪く、だれかれ構わずやっつけてしまう千谷君はひときわ目立った存在だった。ほかに名前をすぐ覚えたのは、紅二点の細田淳子さんと川上登喜子さん、特別にずー体の大きい関根達也君と福島邦雄君、くらいだったろうか? あるときゼミで細田さんが論文を紹介、優秀な彼女の発表に攻撃の余地などないのだが、ちょっとした言葉じりに対する千谷君の冷やかし攻撃の話は彼の定年を記念した文集《蛋白質と共に半世紀》に書いた。千谷さんの攻撃(口撃?)標的はもちろん教室外にも及ぶ。生化学会、酵素化学シンポジウム、タンパク構造討論会など、多くの発表に鋭い質問を浴びせて演者を追及する。当時は口頭発表のみ、ポスターセッションはなかったから質問討論時間を何とかもちこたえれば開放されるのだが、泣かされた人もいたのではないだろうか? 彼が長いアメリカでの研究生活を経て帰国したころ、ある学会であまり質問しなかったので心配になってどうしたのか聞いたことがある。どんな返事だったか覚えてないが、やはり老けたか?とさびしく思っていた。しかしその後も Proceedings of the Japan Academy に論文(Series B, 85, 494–508, 2010)を発表、先に書いた《囲む会》での元気な発言や《アトモスフィア》での建設的提言を見聞きして、まだまだ元気に情報発信し続けてくれると期待していただけに、あまりに早く訃報に接し残念でならない。
千谷さんは論文のローマ字名を K. Chitani ではなく K. Titani としておられる。論文の著者名はヘボン式つづりが一般的だが、彼が訓令式を採用したのは、おじ様の千谷利三先生に合わせたためと聞いている(千谷利三先生にお目にかかったことはないが、先生の無機物理化学は筆者が高校時代に読んだ最もインパクトのある書物の一つ)。この Titani のつづりはギリシャ神話の巨神タイタン Titan(Tιτάν)にも通じるから、科学の巨人を目指しての意気込みもあったに違いない。そして彼がタンパク科学に遺した偉大な業績はタイタンの名に相応しい。もう少し生きながらえて、日本の生命科学の世界に、少し過激な、そして非常に建設的な助言をし続けて欲しかったと思っているのは筆者だけではないだろう。《心からご冥福をお祈りし…》という月並みの弔辞でお送りするには偉大すぎる千谷さん、どんな言葉でお送りすればいいのだろう?
千谷先生の思いで
大島 泰郎(共和化工㈱・環境微生物研究所所長)
私が学部3年生を終わろうとする頃、卒業研究を希望していた東大理学部の生化学教室は今思い出してみると、まるで戦国乱世の感があった。教授の赤堀先生は、阪大理学部、蛋白研、東大理学部、応微研を兼務し、それに加えて学会や政府関係の委員会、味の素の研究所など多忙を極め、生化学教室には、月に一回、それもわずかな時間滞在されるだけだった。阪大から来ていた佐竹先生は、前年に都立大に移り、田宮信雄助教授は、海外留学中。研究室には寺山助教授、石本・草間両助手、それに今風に言えば「シュウカツ浪人」だったのだろうか、近藤さんや亀山さんがいた。皆、一国一城の主のように振舞っていたが、学部3年生の目からは、石本さんが一番偉く、次にえらそうに見えたのが千谷さんだった。まさか、大学院生だったとは!
卒業研究は、数ヶ月ずつこれらの「戦国大名」の下で教育という名の下働きをして、それから最後の半年ほどを特定のテーマで研究に従事するということになっていた。千谷さんは戦国大名の一人として鯨のシトクロームのアミノ酸配列に取り組んでいるチームを率いていた。 当時、イトーベックマンという、今の若い人に話せない国辱的なベックマン分光器のデッドコピー製品があり、しかも性能はまったくコピーできていない欠陥機器で、電気回路の安定性が悪いので交流電源では使えず自動車用のバッテリーによる直流駆動であった。この機械は暖房のない(当時、全館暖房などない)部屋においてあり、寒さしのぎに外套を着たまま千谷さんの命令でアミノ酸分析のカラムクロマトからの溶出液、ほぼ1000本近い試験管にニンヒドリンを加えて発色させ比色計で測った。寒くつらい思い出だけが残り、このグループだけは行くまいと堅く心に決めた。
しかし、大学院生になってすぐの頃、鯨の心臓が届いたことがあった。このときは、研究室の若手総出で医学部の栄養学教室に出向き、千谷さんと医学部の水上さんの指揮の下、巨大な容器を使いシトクロームの抽出、粗精製を行った。好天の日なのに、「長靴を履いて来い」といわれ、私の持分は硫安沈殿用の硫安をスコップでバケツに入れて、商店が使う大型の秤で計り、最後は庭で使う竹箒を逆さにして、柄の部分を攪拌棒として硫安を溶かす役だった。強烈な印象で以降、千谷さんに会うたびにこの日のことを思い出した。この原稿を書くときも、真っ先にこの日の光景が脳裏に浮かんだ。
千谷さんは間もなく大学院の課程を終え、蛋白研に移られたので、同じ研究室だったのは2年ほどだったと思う。しかし、強烈な個性で強い影響を受けた。気さくな性格で、何でも思ったままを言えたので、後になって本人の面前では「千谷さんにスポイルされた」などといっていたが、研究に対する真摯な態度、研究データに対する批判的な姿勢など大いに学ぶ点があった。その一方で、「チビッコ・ギャング」というあだ名にふさわしいいたずら好きで、このほうでも一緒になって遊んでいただいた。あるときのタンパク質構造討論会で、千谷さんは二日間の全演題に質問をしていた。二日目の夕刻、会が終わり私は感嘆して「千谷さんはすごい。全演題に質問をした」というと、千谷さんは「違う。全部ではない」という。そんなはずはないのだが――と思ったところ、千谷さんが言った「自分の発表には質問しなかった」当たり前だ!
その後一度、研究上で千谷さんと遭遇する事があった。千谷さんはワシントン時代、Neurath の下で好熱菌のプロテアーゼの一次配列、立体構造を決める研究をされた。好熱菌の生産する耐熱酵素タンパク質の 3D 構造が決まった最初だった。これに基づいて、耐熱機構の新しい研究が――と思ったが、千谷さんは構造、特に一次構造にだけ関心があって、耐熱機構には乗ってこなかった。共同研究者の Matthews は、その後、しばらく好熱菌の国際会議にも顔を出していたが、当時はまだ、BC の時代で部位特異的変異など DNA 技術を駆使した研究が出来なかったので、あまりこれといった研究には発展せずに終わった。千谷さんと組んで研究が出来たら――と今でもちょっと残念な思いが残っている。
千谷晃一先生を悼む
高橋 健治(東京大学名誉教授)
去る十二月半ば、千谷先生の突然の訃報に接し、驚きとともに大きな悲しみに包まれました。私が先生に最後にお会いしたのは、一昨年の一月、田宮信雄先生のご葬儀の時でした。食道がんを患われてはいましたが、治療効果が上がったとのことで、至極お元気でした。その後、札幌に帰られ、自然に囲まれた環境で、奥様と悠々自適の生活をされていると聞いておりました。大学での仕事から開放され、晴耕雨読の生活を存分に楽しまれているものとばかり思っておりましただけに、今回の訃報は実にショックでした。天のなせる業の無情を痛感します。
千谷先生と私のおつきあいは六十年近くになりますが、身近に親しく接することが出来たのは、私が東大理学部化学科四年生の卒業研究の時から大学院の一、二年生にかけての頃でした。私の卒業研究の当時(1956年)、先生は東大・化学系大学院化学専門課程の修士課程二年生(ただし年齢は私より四歳年長)で、阪大の赤堀四郎先生が兼任されていた理学部化学科生物化学研究室に属されており、私も同じ研究室で卒業研究をしました。私はタンパク質の構造・機能相関の研究に興味を持っていましたが、当時、東大・赤堀研究室でそのような方向でなされていた研究は唯一「チトクローム c の構造と機能に関する研究」でした。チトクロームcの研究は千谷先生が中心となり、一年上の石倉久之先生(現、自治医科大・名誉教授)および医学部栄養学科助手の水上茂樹先生(現、九大・名誉教授)との協同で進められていました。そこで、私も大学院進学後は千谷先生に誘われるままグループの一員として、加えてもらい、研究らしいものをスタート出来たわけです。千谷先生は、右も左も分からない私を、タンパク質の取り扱い法から始まり、精製法、分析法、化学修飾法などに至る迄、手取り足取りして、懇切丁寧に指導して下さいました。千谷先生は私にとってまさに直接の恩師といえる存在でした。その薫陶により、その後の私の研究の方向もすっかり基礎づけられたと感じています。
やがて、研究の中心は「チトクローム c の一次構造決定」の方向に進み出しました。しかし、当時分子量一万前後以上のタンパク質の全一次構造を目指した研究はわが国にはまだほとんど例がなく、そのための基本技術を導入するのに多大の労力が必要でした。当時、国外におけるタンパク質の一次構造決定は、1955年に英国の F. Sanger 博士がウシインシュリン(51残基)の全構造を決定した以降は、分子量一万以上のタンパク質の構造決定に移り、米国においてウシすい臓リボヌクレアーゼAに関する S. Moore、W.H. Stein 博士らの先駆的な研究などが先陣を切って進んでいました。定量的アミノ酸分析法やペプチド断片の分画法、エドマン法によるアミノ酸配列分析法など、近代的な基本的手法の殆どを新たに導入する必要があり、一つ一つがわが国においては初めての導入でした。「一刻も早くこれらの手法を導入しないと、わが国はタンパク質化学の分野で欧米に大きく立ち後れてしまうだろう」という千谷先生の危機感を帯びた言葉に共感し、この作業を千谷先生の指導のもと、一歩一歩進めて行ったことを覚えています。先生が博士課程二年時に、赤堀先生が退任され、生物化学科の新設とともに江上不二夫先生が着任され、大学院は生物化学課程に変わりました。この時点でチトクローム c グループは発展的に解散し、その後千谷先生は博士課程を修了されるとともに新設された阪大蛋白質研究所(初代所長赤堀四郎先生)の化学構造部門に助手として移られました。そこで、初心を貫徹され、成田耕造教授の協力を得て、1963年にパン酵母チトクローム c の完全一次構造を決定されました。分子量一万以上のタンパク質では、我が国で最初の一次構造決定という快挙でした。近代タンパク質化学の黎明期にいち早く欧米の新技術の導入に先鞭をつけられ、先駆的な成果を挙げられたことは、その先見性と実行力において極めて高く評価されるところであり、我が国のタンパク質化学の発展に大きく貢献する業績でした。
その後、米国に留学され、フロリダ大学およびインディアナ大学の F.W. Putnam 教授の研究室での数年間には、ベンス・ジョーンズ蛋白の一次構造を解明され、分子免疫学分野の発展に大きく寄与されました。さらに、ワシントン大学医学部生化学教室に移られ、H. Neurath、K.A. Walsh 両教授を初め、数々の著名な研究者と共同研究をされ、1976年には教授に昇格されました。シアトルでの二十年に近い研究期間に亘り、グリコゲン・ホスホリラーゼ、cAMP 依存性プロテイン・キナーゼ、フォン・ビルブランド因子を初めとする沢山の生理的に重要なタンパク質の一次構造決定など、先駆的成果を次々と発表し続けられ、生化学の世界に大きなインパクトを与える業績を挙げられました。この事は当時の一時期、米国に留学していた私にとっても尊敬と自慢の種でした。私が知る限り、多分あの頃が、先生が最も油が乗り、輝かれていた栄光の時代であったかと思います。「タンパク質化学の最前線に立つ戦士」とも見える、あの迫力に満ちた先生が今は無いと思うと、本当に心に空洞ができたような淋しい気がいたします。
ご帰国後は藤田保健衛生大学教授として、名古屋を中心に、医学関係の多くの研究者との共同研究を含め、研究と教育に多大の貢献を成し続けられました。これらの功績により、「機能蛋白質の化学構造に関する研究」という題目で、1997年第七回東海読売医学賞を受賞されております。先生が蒔かれた種は、先生の育てられた後輩達や先生の共同研究者によって今後末永く受け継がれ、新たな発展に繋がって行くものと確信しております。
先生は研究と後輩の指導に人一倍熱心だっただけでなく、大変親切で正義感にあふれる人だったと思います。そして、生涯にわたり少年のような純粋な心を持ち続けられておりました。研究室や学会などではいつも積極的に発言されて、歯に衣を着せない鋭い批判や意見を開陳され、やや小柄な体躯でしたが、存在感は絶大でした。それだけに、周囲の信頼も厚く、タンパク質工学会の会長などを歴任され、その運営と発展に多大の貢献をなされました。先生の皮肉を込めた、しかし多くは的を射た「毒舌?」に当てられ、「いつか舌がんになるのではないか」等と揶揄した不逞の輩もいたようですが、最後に食道がんに倒れられたのは、何ともやり切れない皮肉な結果でした。札幌に行かれてからも、私のことも忘れずに心配して下さり、昨年の年賀状には、お元気なご夫婦の写真入りで「大島さんから聞きましたが、早期肺がんはその後いかがですか?私の食道がんは幸運だったのか、現在のところ無事です。くれぐれもご自愛下さい。」と書かれていました。あれから一年、幸運の女神は誠に残念ながら皮肉な結末を用意していたようです。
千谷先生、長い間本当にご苦労様でした。そして、有り難う御座いました。またの日に彼の地でお目にかかり、積もる話の続きをさせて戴きたいと思います。それまでは、どうぞ静かにお休み下さい。先生の偉大な功績を偲び、ご冥福を心からお祈り致します。
千谷先生を偲んで
林 宣宏(東京工業大学・生命理工学研究科)
数年前に治療された食道癌が再発し、その摘出手術は成功したものの、その後発症した肺炎により、平成二十四年十二月十六日の朝に千谷先生は八十二歳でご逝去された。私は学位取得直後の平成六年から先生が退職されるまでの平成十四年まで、助手として千谷研に籍を置かせていただいた。蛋白質科学を学ばせていただいた八年間であった。
千谷先生はそれまでに蛋白質の一次構造の決定で数々の業績を挙げられていたが、私が着任した時には、当時はまだめずらしかったエレクトロスプレーイオン化(ESI)型の質量分析装置が稼働しており、その装置で新たな分野を開拓されようとしていた。現在、質量分析は生命科学において中心的な役割を担っているが、先生は先見の明でその装置を使ってリン酸化をはじめとする翻訳後修飾の研究に取り組んでおられた。私は先生が発見されたミリストイル化に関してこれまで研究を進めてきたが、現在では、細胞内には多数のミリストイル化蛋白質が存在し、それらが細胞膜と細胞質間のシグナル伝達を担っているということが解ってきている。
千谷先生は、戦後、疎開せずに東京に留まって、闇市を駆け回りながら育ったとのお話を聞いたことがある。ちゃきちゃきの江戸っ子の風で、日頃からなんでもご自身でされて、雑用を言いつけられたことは一度も無かった。また、日頃から誰に対してもとても気さくに接して下さったので、学生から職員にいたるまで、先生は誰からも慕われていた。先生のことを良く知る研究者からは、その大きなご業績にもかかわらず決して偉ぶる事なくお付き合いいただけるので、特に慕われていたように思われる。
他方、学会での千谷先生のご発言がとても厳しく怖かったことは有名であった。しかし、それでやり合いになることはほとんど無かったようである。常人の場合には、議論において相手の論理の不備を指摘するとき、意識せずとも相手への非難の気持ちを込めてしまうこともあるが、先生のご発言にはそういったものは感じられなかった。先生は目についたほころびを、その科学がより良いものになることを願って、子供のような純粋さと江戸っ子のせっかちさで直言された。従って言われた側は素直に“しまった”とその言葉を受け入れ、その時はしょんぼりするが、改めて、今度は認めてもらえるように頑張ろうとの気概を興させられたのではなかっただろうか。私が千谷研究室に赴任したときには、多くの方から、「あれほど怖い千谷先生のもとでは大変でしょう」と言っていただいたが、その怖さは、激しい口調によるものでも、険しい表情によるものでも無かったので、最初のうちは先生に怖さを感じなかった。しかしそれは、自身が科学を担う者として未熟であっただけであり、科学を生業とするうちに、先生の怖さが解るようになった。以降、千谷研を離れて後も、私にとって先生は、“これについては何と言われるだろうか”と常に畏れる怖く巨きな存在であった。
あるとき、千谷先生が蛇毒の成分を二次元電気泳動で眺めてみたいと言われた。しかし、その当時は手技の未熟さで有意な結果を出すことは出来ず、先生の寂しそうな顔はいまだに忘れられない。最近、高性能の二次元電気泳動の手法を開発し、今度は蛇毒のデータを出して先生に喜んでいただこうと思っていたのに、それが叶わなかったことは大変に悔やまれる。
千谷先生には科学に向き合う姿勢を教えていただいた。先生は蛋白質化学の大家である。しかし、ご自身のご専門にはまったくこだわりが無かったように思われる。千谷研では、当時、血液凝固の分子機構に関する研究も盛んであった。先生が一次構造を決定されたフォンビルブラント因子に関して、糖鎖修飾や、血小板との相互作用といった生理活性を担う各ドメインの機能構造が明らかになりつつあった。また、血小板凝集を惹起する蛇毒成分を使って血液凝固の分子機構が調べられていた。それに関連して、基礎から臨床に至る広範な分野を横断した共同研究が行われていたが、先生は常に目的指向で陣頭指揮を執っておられた。研究者はどうしても自身の専門に執着しがちである。しかし、先生にとっては、研究を遂行するうえで、ご自身のご専門は選択肢のひとつでしかなかったようで、必要だと思われることはなんの躊躇も無く取り入れられた。とはいえ、先生が蛋白質化学の巨人であることは言うまでもなく、だからこそ一流の共同研究者とのパートナーシップを築いて数々の大きな仕事をされたことを鑑みれば、自身が担う分野で一流であるために常に研鑽を磨くことを怠ってはならないのであるが、にもかかわらずそこにこだわりをおかないというのは、なかなか難しい。
また、千谷先生には科学への導き手としての姿勢も教えていただいた。その当時は、ほんとうに沢山お話させていただいた。今から考えると稚拙なことをお聞きしたこともあったのだが、それをあしらう風でもなく、こちらが納得いくまでずっと相手をして下さった。忙殺されているとどうしても気忙しくなってしまうものであるが、先生からそのような雰囲気を感じたことは一度も無く、いつも泰然自若とされていた。学生達と付き合う折に、多事に忙殺されてつい慌ただしくなってしまい彼らに気遣わせたことに気付くたびに、先生のようにありたいと思うのである。
また、教育者としては自身の専門分野を教えるのが当たり前であるが、ここでもまた、先生にはご自身のご専門に対する執着が無かった。こちらが蛋白質化学の教えを請えば入念にご指導いただけたことはもちろんであるが、先生のご専門以外のことにこちらの興味が向いていることが分かると、その分野の一流の研究者を即座にご紹介下さり、そこに出向く機会を作って下さった。このことは、科学において創造する力の源は、自主性、モチベーションにあると先生が考えられていたからだと思う。
千谷先生は北海道札幌市の真駒内近くに移り住まれて二度目の冬を迎えられたところであった。とても空気の美味しいところで、ご自宅の裏手には風光明媚な景色が広がっている。そのようなところに住まわれて、これからは若返られて、これまで以上にお元気になられてご指導いただけると思っていたので、ご逝去されたことがいまだに信じ難い。先生は蛋白質科学の先駆者であり、導き手であった。科学する精神を育むことは、今の時代、益々、難しくなっている。そのような時代において先生のような科学の導き手を失ったことは大変に残念である。
先生のご指導への感謝の気持ちは筆舌に尽くし難く、ご冥福をお祈りするばかりである。