萩原さんの思い出
産業技術総合研究所 中村 努
萩原義久さんが産総研に入ってこられたのは、2000年10月でした。正確には、産総研の独法化が2001年4月だから、工業技術院大阪工業技術研究所(大工研)に入ってこられたということになります。当時私は大工研の湯元昇先生(現・地方独立行政法人大阪産業技術研究所理事長)率いる研究室に属していました。歳が近く(萩原さんが1歳上)分野も近い人が同じ研究室に入ってくるというので、楽しみにしていたことを覚えています。
萩原さんはとにかくよくしゃべり、明るく、ガハハと笑う人でした。単に口数が多いというのではなく、どんな話題でも話を膨らませることができて、話を聞いているとすぐに時間がたってしまうような人でした。「星野さんが歯を折った話」は、背景の説明から脚色まで完璧で、何回聞いても笑いをさそう、古典落語のような出来上がった話でした。
萩原さんは遊び心のある人でした。実験室では仕事だけではなくいろんな遊びもしていました。まず職場環境の整備として金魚の飼育。アガロースゲル撮影用のポラロイドの露出を絞ったら人物写真が撮れるのかの検討。その時は古墳の壁画のような人物写真が撮れて、長らく実験室に貼ってあったのですが、今は見つけられずにこの場で紹介できないのが残念です。自宅でのパン作りがうまくいかず、キットについていたドライイーストを疑うと、早速研究室に持ってきて培養し、チェックしていました(プレートいっぱいに生えてきました)。実験が好きで、実験道具で遊ぶのが好きだったのでしょう。
いろんな研究室に伝わる実験のちょっとしたコツをデータベース化して広めたい。そんなことを言い出したのはいつのことだったでしょう。当研究室でもコツを文章化するために追加実験をしました。ホットグアニジン法(カラムに塩酸グアニジン溶液を満たしてレンジでチンしてカラムを洗う)の条件検討をしてみたり、レンチンでのSDS-PAGEの色の抜け具合を検討してみたり(これらはあまりにも小ネタすぎてデータベースへの掲載は見送られました)。このような遊び心から生まれた蛋白質科学会アーカイブが、今やインパクトファクターを付与されてもいいのではないかと思うほど立派なコンテンツに育ったのを見て、萩原さんはどう思われたでしょうか。産総研関西センターのある部屋では、蛋白質科学会アーカイブが開設された時のポスターが長らく貼られたままになっています(写真)。これは、まだまだ貼っておきましょう。
本来の研究のほうでは、シングルドメイン抗体(VHH抗体)関連で数多くの成果を残してこられました。アルパカという動物は今やたいていの動物園で見ることができますが、日本でメジャーになったのは2008年に株式会社クラレがCMにアルパカを起用して以降と聞きます。萩原さんはそれと相前後してアルパカで抗体を生産するプラットフォームを確立し、VHH抗体を日本における抗体選択のひとつとして育て上げました。その研究では後進の育成にもあたり、その時に若手として指導を受けた職員によると「妥協がなかった」とのことです。遊びへの情熱と同様、研究への情熱も強い人でした。
能力があり、人望も厚い、そんな萩原さんのことを産総研が放っておくはずもなく、生命工学領域企画室長としてつくばに異動したのを皮切りに、いくつかの指導的な役職を歴任されました。2022年にバイオメディカル研究部門(のちのモレキュラーバイオシステム研究部門)の部門長に就任し、研究成果の社会実装、企業連携の推進、組織の運営を担われました。そのようなキャリアパスは萩原さんが若いころに思い描いていたものとは異なるかも知れません。しかし萩原さんのおかげでどれだけの人が救われたか、どれだけの若者が新しいキャリアを積むことができたかは、決して忘れてはなりません。
萩原さんが体調を崩したのでバイオメディカル研究部門への連絡はこちらにCCをつけるように、と産総研内で周知されたのは2024年度の後半のことでした。その後会ったときには「酒もタバコも止めたよ」「そりゃお医者さんもそう言うよね、ガハハ」とおっしゃっていました。2025年12月には療養に専念するために部門長を退かれ、それでも時々は元気そうな姿を見せてくれました。私が最後にお会いしたのは、産総研関西センターに奥様と一緒に荷物を取りに来られた時でした。「スシローに行ってきたよ、ガハハ」と。
萩原さんの訃報が産総研内に伝えられたのは7月2日の朝のことでした。膵臓がん、57歳の若さでした。正常化バイアスというのでしょうか、「見なかったことにしよう」と普通に仕事を続けました。しかし夕方ごろにはふと思い出されました。外の階段の踊り場で、連れションならぬ連れタバコをしてずっと話をしていたこと。理不尽なことには一緒に腹を立ててくれたこと。こんなことでお世話になったこと。あんなことで助けてもらったこと。…もう一度戻ってきてくれるものと思っていました。あれだけ働いたのだから、年金ぐらいもらってもよかったんじゃないですか? 萩原さんの思い出は、いろんな人がいろんな形でお持ちでしょう。その思い出を大切にして、静かにお祈りしたいと思います。萩原さんありがとうございます。
追悼 萩原 義久先生
北里大学・教授 松田 知己
本学会の「蛋白質科学会アーカイブ」初代編集委員長を務められた、産業技術総合研究所モレキュラーバイオシステム研究部門長の萩原義久先生が、2026年7月1日にご逝去されました。享年57歳でした。あまりにも突然のことで、いまだに受け入れがたく、深い悲しみに堪えません。ここに謹んで哀悼の意を表するとともに、先生のご功績を振り返り、感謝の思いを申し上げます。
萩原先生は、ラクダ科動物で見いだされた、軽鎖を持たない重鎖抗体の可変領域であるVHH抗体にいち早く注目されました。小型でありながら高い安定性と抗原結合能を備えるVHH抗体の構造と機能を研究され、その安定性や機能の向上、さらには次世代抗体医薬品としての実用化・社会実装を見据えた研究を精力的に進めておられました。基礎的な分子研究の成果を医療や産業に役立つ技術へとつなげようとする姿勢は、先生の研究に一貫した大きな特徴であったと思います。
本学会においては、「蛋白質科学会アーカイブ」(以下、アーカイブ)の創設に中心的な役割を果たされ、初代編集委員長として、その充実と発展に多大なご貢献をされました。アーカイブは、蛋白質科学の基礎から最先端までを体系的に学ぶことのできる貴重な教育・啓発コンテンツであり、本学会員に限らず、多くの学生や若手研究者、さらには関連分野の研究者にも広く利用されています。私が2代目編集委員長としてアーカイブを引き継いだ際、発足準備期の企画書を拝見する機会がありました。そこからは、萩原先生を中心に、当時は若手研究者であった編集委員の先生方が、いかに熱意を持って準備に取り組み、現在のアーカイブの体系を築かれたのかを窺い知ることができました。2026年9月現在、アーカイブには119件のプロトコール記事が掲載されています。そのうち35件は、アーカイブが初めて公開された際に掲載された記事です。萩原編集委員長のリーダーシップのもと、発足当時の編集委員の先生方が集められたこれらの記事は、今日に至るまでアーカイブ記事の標準となっています。
萩原先生は8年間にわたり編集委員長を務められ、私が編集委員長を引き継いだ時点で、アーカイブはすでに蛋白質科学に関わる研究者や学生に広く知られる存在となっていました。定期的に刊行される学会誌とは異なり、アーカイブは、より身近な形で実験手法や研究上の知見を共有する場を目指していました。その編集には、編集委員による手作業に頼る部分も少なくありませんでしたが、萩原先生はアーカイブに対する強い使命感と深い愛着を持ち、いつも率先して活動に取り組んでおられました。編集委員長を退任された後も、萩原先生には折に触れてご助言をいただき、さまざまな相談にも乗っていただきました。快活なお人柄で、アーカイブの活動について常に前向きなご意見をくださり、活動の中で生じる問題を乗り越えていく力を与えてくださいました。先生が水面下で投稿を勧めてくださったのではないかと思われる方から記事の投稿をいただくこともあり、先生がいつもアーカイブを見守ってくださっていることを感じながら、安心して活動を続けることができました。現在は、3代目編集委員長を有森貴夫先生が務めておられます。発足当時に萩原先生が思い描いておられたアーカイブの将来像と現在の姿との違いや、生成AIによって実験プロトコールさえ生成できる時代において、アーカイブの記事はいかにあるべきかについて、いつか新旧編集委員長で話し合ってみたいと第26回年会に参加した後に漠然と考えていました。その矢先に訃報に接し、強い衝撃を受けました。もうそのような機会を持つことができないことが、残念でなりません。
萩原先生とは、私が博士課程の学生として大阪大学蛋白質研究所に在籍していた頃、同研究所の別の研究室で博士研究員を務めておられた先輩として知り合いました。そのご縁は長く続き、学生時代には共著論文を発表させていただきました。当時発表した論文を参考文献として引用した、萩原先生を責任著者とする論文が、先生のご逝去直後の7月14日にオンラインで公開されたことも、深く心に残っています。まだまだ進めたい研究、発表したい成果がおありだったことと思います。そのことを思うと、最後まで研究を発展させ、成果を世に送り出そうとされた先生の強い思いが伝わってくるように感じます。先生のご研究は、多くの研究者に受け継がれていくことでしょう。そしてアーカイブもまた、蛋白質科学研究を支える基盤的なコンテンツとして、先生が思い描いておられたように、時代に応じて柔軟に変化しながら、これからも長く受け継がれていくものと信じております。
萩原先生が蛋白質科学会アーカイブを通して本学会に多大なご貢献をくださったことに、改めて深く感謝申し上げます。先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。