福井俊郎先生の教え
東京薬科大学名誉教授 多賀谷 光男
本学会名誉会員であり、大阪大学名誉教授の福井俊郎先生が2026年3月18日にご逝去されました。福井先生は1949年旧制甲南高校を卒業後に、戦後始まった新制大学の一期生として大阪大学理学部化学科に入学されました。この新制一期は旧制大学最後の学年と一緒の卒業で、旧制最後の学年にはガン遺伝子研究で有名な花房秀三郎博士がおられます。福井先生は大阪大学産業科学研究所の二国二郎先生(乾燥米であるアルファ(化)米の開発で有名)の研究室へ入られ、1958年に博士学位取得後に同研究所の助手となり、すぐに米国パデュー大学のB. アクセルロッド博士の下に留学されています。留学から戻ってからは1966年に助教授、1970年に教授へ昇進されています。二国研究室では当初はデンプンの研究でしたが、留学前後からデンプンを代謝する酵素の研究を始め、1968年にはその後の研究のメインテーマとなるデンプンホスホリラーゼをジャガイモ塊茎から精製しています。
私が福井研究室に卒研配属されたのは1979年であり、その頃の福井研究室ではホスホリラーゼの触媒機構の研究とジャガイモ酵素のアミノ酸配列の構造決定が進められていました。 ホスホリラーゼは補酵素としてピリドキサルリン酸(PLP)を含みますが、その役割は他のB6酵素とは異なり、4位アルデヒド基は触媒反応に関与しておらず、その役割については謎とされていました。福井研究室では種々のPLPアナログを合成して補酵素の結合様式やその役割について解析していました。ジャガイモホスホリラーゼのアミノ酸配列の決定を目指したのは、若手研究者当時からの知己である千谷晃一博士(シアトルのワシントン大学)による1977年のウサギ筋肉グリコーゲンホスホリラーゼの全一次構造の決定に触発されたためと思われます。ウサギ酵素はAMPによるアロステリック活性化やリン酸化―脱リン酸化といった調節機構を有するのに対して、ジャガイモ酵素は何も調節機構がないことから、両者の比較によってその構造的基盤を解明しようとしていました。これらの研究は、1982年にPLPのリン酸基に基質のグルコース 1-リン酸を共有結合させたPLDP-グルコースが酵素反応中間体のアナログであることを明らかにし1)、また1986年にはジャガイモ酵素の全一次構造が決定されて2)結実しました。
福井先生は部下や学生の研究においてはその自主性を尊重し、私はホスホリラーゼの研究の後は、PLPを基盤にしたヌクレオチド結合部位のアフィニティラベルの研究へと進みましたが、先生は強く後押しをしてくれました。また当時、岡山大学から産業科学研究所に来られた二井将光先生のご協力を得て、部位特異的変異導入法を取り入れてヌクレオチド結合部位の解析を進めました。上記の研究については福井先生自らが本会誌に総説を書かれていますので、ご興味があればお読みください(「わが国の蛋白質科学研究発展の歴史」第3回「我々がたどった道: ホスホリラーゼから始めて」)。
福井先生は気さくで優しい先生でしたが、教育面でも研究面でもきっちりとしていました。研究室配属となった私ともう一人の学生は数年ぶりの卒論配属学生だったこともあり、自ら科学英語を丁寧に教えてくれました。「suggestは「示唆する」と訳し、indicateとは意味が大きく違う。indicateは「(一義的に)示す」という意味であり、科学ではめったに使うことはない」と、英語のみならず、科学の結果と解釈を明確に分けることを教えてくれました。学会発表も中途半端な発表はさせず、基本的には論文となるデータが揃ってから発表をさせていました。当時、福井研究室は日本生化学会と本学会発足の基盤となったタンパク質構造討論会、そして阪大医学部の和田博先生と京大化研の左右田健次先生の主催されていた「ビタミンB6酵素を楽しむ会」が主な参加学会・研究会でした。タンパク質構造討論会は生化学会と比べて発表や討論の時間が十分にとれるので福井先生は好まれていたようですし、私もそこで発表するのを目標に研究を進め、何回か発表の機会を得ることができました。ビタミンB6酵素は酵素自殺基質の開発など、酵素化学分野では先端の研究が行われており、PLPの役割のはっきりしないホスホリラーゼは異端児的存在でしたが、反応中間類似体の同定に成功してからは、「ビタミンB6酵素を楽しむ会」でもホスホリラーゼは重要な一角を占めるようになったと思います。福井先生は事務的能力にも優れ、佐藤了先生が大会会頭を務められた1986年の第59回日本生化学会大会の総務や、ビタミンB6の国際学会においてもその事務的能力をいかんなく発揮されました。
福井先生は、大学の学食で昼食をいっしょにとる時間にさまざまな話をしてくれました。甲南高校は戦時中なのに英語を教えていたとか、福井先生のご友人でホスホリラーゼのリン酸化–脱リン酸化による調節でノーベル賞を受賞されたフィッシャー博士との交友の話とか、国内外の学会のことなどを話してくれました。私が特に覚えている話は、「人間はある程度の歳になったら、その歳に見合った役職に就いていないとダメになる」という話でした。その言葉は歳をとるにつれて私も痛感するようになりました。研究能力だけに限れば40歳台までがピークであり、その後能力は落ちていきますが、一方、研究の勘所や、大きな失敗によって研究が間違った方向へ行かないようにする工夫、人間関係の調整能力などは年齢によってより高まっていきます。そういった能力は教授には適していますが、助教には適していません。奇しくも私は福井先生と同じく39歳で教授となりましたが、なんとかずっと研究費を取り続けることができたのは、福井先生のこういった教えがあったおかげだと思っています。
福井先生と最後にお会いしたのは、正確な記憶ではないのですがおそらく2005年だったと思います。研究室卒業生を集めた京都の保津川下りのイベントでした。その時も卒業生たちの宿、トロッコ列車、川下りの予約もすべて福井先生が引き受けられたようでした。その後、叙勲のお祝いのおりにはまたお会いする機会があると思っていましたが、その案内はついぞなく、今年になって訃報の知らせを奥様からいただきました。福井先生は「勲章は人生の最後にもらうもの。それはその人の最終評価」と言われていましたが、まさにそれを実践され、亡くなられた後に正四位に叙され、瑞宝中綬章が追贈されたとのことです。
福井先生は「研究者の良いところは、その人の論文が残るということであり、それはその人の生きた証」と言われていました。福井先生のタンパク質科学研究に残された足跡は今後も残り、ある時に誰かによって文献が検索され、福井先生の歩んだ研究の歴史が省みられるかもしれません。
福井研究室に在籍中は福井先生のみならず、奥様にも大変お世話になりました。私事で恐縮ですが、この場を借りて先生と奥様に感謝申し上げたいと思います。
- Takagi, M., Shimomura, S., and Fukui, T. (1982) Proc. Natl. Acad. Sci. USA 79, 3716-3719
- Nakano, K. and Fukui, T. (1986) J. Biol. Chem. 261, 9230-9236